11月2日~田中豊二君を悼む~
10月24日友人より、「田中豊二君が急逝した」との電話が入った。
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先月、田中君より四金会(同期会有志)の通知を貰い電話で話をした際、6月ごろ体調が悪くなり、急性肺炎で2週間ほど入院をしたとのことだった。
私も同じ時期に、急に発熱し同期の鵜沼君に診察してもらい、「肺炎に罹りかけているので、できれば入院したほうが良い。」と言われその場で東京の病院に一週間入院したことを伝えた。
「お互いに健康に注意しよう。」と、電話で話し合ったのが最後になってしまった。
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私たちは、終戦前、昭和19年、憧れの校章「旭日桜花」の「都立第3中学」に入学した。
それ以来63年余の付き合いだ。
翌年3月10日の大空襲で校舎は全焼、暫くは焼け跡の教室で勉強した。
家を焼かれて東京を離れていた人も終戦後徐々に戻ってきた。
中学4年が終了した時、新制高校に変更になり、中学4年で旧制高校に入った人、新制高校3年までいた人、合わせた同期会が今日まで続いている。
通称「豊ちゃん」は常に面倒な幹事役としてみんなの世話をしてくれた。
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大学を卒業して、豊ちゃんはキリン麦酒、私は後楽園に入社した。
当時、後楽園はキリン麦酒専売だったので、仕事の上でも随分面倒を見てもらった。
私が販売担当の時、キリン麦酒社長の川村さんは、都立3高(現両国高校)の同窓会会長で、豊ちゃんの紹介もあって、直接接待を受けた事もある。
それ以来、私は『ビールはキリン』と決めている。
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30年以上前、豊ちゃんが京都工場長のとき、先生を含め10数人で京都まで押しかけ、工場見物の後、大宴会を開いたことがある。
二次会では、生まれて初めてで最後の「祇園の御茶屋」に上がり、舞妓さんたちの接待を経験させて貰った事は今でも忘れられない。
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又、退社後,請われて「山種美術館」の館長になった。
千鳥が淵の桜が満開の時期、妻同伴で近くの「山種美術館」にお邪魔した時、忙しい館長さん自ら1時間近く私たちに付き合ってくれ、展示してある絵画について詳しく解説してくれた。
同期会で遊んだ、浅草のビヤガーデン・小柳の鰻と振袖さん・如水会館・後楽園ホテルと思い出は尽きない。
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葬儀の時、厚かましく「弔辞」を読ませてもらい1番上座に座ったが、隣に「山種証券元社長・山種美術館名誉会長」の「山崎富治氏」が居られ、丁寧に挨拶をされて恐縮してしまった。
通夜・葬儀を通して数多くの弔問客が列席され、豊ちゃんの顔の広さに驚いた。
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多数出席した同期生メンバーの誰もが、「いつもニコニコ、怒ったり、荒立てた言葉を聞いたことの無い、あの笑顔にもう合えないと思うと、寂しくて残念でならない。」と話し合っていた。
『友の笑顔 祭壇にあり 秋しぐれ』
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