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2009年6月

6月29日~吉村昭のふるさと~

南千住から徒歩8分、荒川区立荒川ふるさと文化館で開催されている「吉村昭ふるさと展」を観覧に行く。

規模は小さいが、中身は先生の幼児から戦争経験まで細かく記されていて、後の作品に現われていることが理解された。

日暮里の駅近くに生まれた吉村先生は、昭和20年4月13日の空襲で実家が焼けた様子を細かく記している。

私も中野で空襲に逢い、目の当たりに経験しているのでその様子が良く判る。

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戦前戦後に相次いで御両親を失い、先生自体も戦後肺結核に冒され、胸部の成形手術で肋骨を5本切除している。

正直に言って、この体で文学に志し、あれだけの大作を次から次へと出筆された事は信じられないほど精神力が強かったのだろう。

学生時代の同人雑誌仲間、津村節子さんとのおしどり夫婦作家は、傍で見ていてもお互いの立場を理解しつつ活躍されて、本当に珍しいと同時に羨ましい限りだ。

先生は、原稿の締め切りに間に合わない事は一度もなく、連載物は常に何回分かは用意されていたと言う。

先生のお宅に電話すると、奥様が直接出られることが多く、時には先生が応答される。

あれだけの作品の調査研究も殆ど御自身で行なっていたようだ。

「奥様が「芥川賞」を受賞したとき、先生はどう思ったか。」と言う質問に対し、
「これで生活の心配なく暫く自分の思っている仕事が自由に出来る。」と応えたそうだ。

吉村先生のお別れ会の時、津村先生の御挨拶は、実に清楚の上愛情溢れる言葉で、参加者は皆感動していたのを思い出す。

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先生と同年輩の、城山三郎氏との対話は、終戦前後の混乱期に同時代を生き抜いたお二人の戦争に対する考え、就筆活動調査の正確さ、そして生活態度は、お互いに共通する事を物語っている。

二人とも作家仲間との付き合いは殆どなかったらしいが、話が合ったらしくよく一緒に呑んだと言っている。

相次いで亡くなられたことは本当に惜しまれる。

あの世に行ってもお互いに言葉を交わしていることだろう。

「大家二人 戦争語る 夜寒かな」

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6月26日~松本金太郎襲名披露~

4歳の幼児松本金太郎が、祖父松本幸四郎、父市川染五郎の間に入って「門前祝寿連獅子」を見事に踊って見せた。

立っているのも大変なのに、頭を器用に回しての熱演、客席から割れんばかりの拍手・掛声が上がった。

親戚関係の役者による襲名披露挨拶の後、あどけない声で「ありがとう御座います。」と堂々と口上を述べた。

これから修行を重ね、将来は祖父や父親に負けない立派な歌舞伎役者に成長してゆく事は間違いない。

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6月の歌舞伎座夜の部は、珍しく、3本とも河竹黙阿弥の作で構成されている。

「極付幡随院長兵衛」吉右衛門・仁左衛門の顔合わせ、劇中芝居見物の場から、親子・子分との別れの場、そして大詰の風呂場まで、迫力に満ちた舞台が観客を魅了する。

劇中劇の観客席からの旗本と町奴のいさかいを上手く引き出し、後の物語に運んでゆく演出はうまいものだ。

「髪結新三」では、幸四郎の新三、珍しい福助の立役手代の忠七、そして因業大家役板東弥十郎のどけち振りが、いかにも木阿弥作らしいエスプリを効かせて笑わせる。

総舞台時間が4時間に及ぶ大作揃いだったが、息もつかせぬ進行に大満足、余韻を残して家路に着く事が出来た。

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6月24日~淡交フィルハーモニー創立60周年記念演奏会~

6月21日(日)サントリーホールで、両国高校OB・現役で構成されている『「淡交フィルハーモニー管弦楽団創立60周年記念音楽会』が開催された。

当日は多くの関係者でホールはほぼ満員の観衆を集めた。 

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この楽団は、都立3高の合唱団から『やまびこ』が母体となって昭和24年に発足した。

その前年から教育制度が6・3.・3制となり、校名が“両国高校”と変わった。

敗戦後、特に殆ど空襲で焼かれた下町で、音楽活動は容易でなかったが、一部の熱心な人々の努力により、最近は年に1回の定期演奏を初め、記念行事などで活躍している。

OB現役を含め忙しい人達が集まって練習する事は大変な難事業である。

出演者は団友・賛助者を含め何と120人を越えている。

しかも数年前から公立中高一貫教育と為ったので、中学生が何人か仲間に入っているのは嬉しい事だ。

指揮者は昭和50年卒、藝大出の鈴木行一氏、作曲活動もされており、忙しいこの楽団の常任指揮者として指導しておられる。

又、ヴァイオリン独奏は、平成11年卒同じく芸大卒の三上亮氏、各種のコンサートに出演活躍されている。

♪プログラム♪
 ワーグナー 楽劇「ニュルンベルグのマイスタージンガー」の前奏曲
 メンデルゾーン ヴァイオリン協奏曲 
 ショスターコビッチ 交響曲第5番
そして、アンコール「仮面舞踏会」の前奏曲

なんと言っても極め付きは、校歌“明け暮れのみ教え”思わず観客席から合唱の声が聞こえてきて、会場はいやがうえにも盛り上がった。

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一高校のOB・現役で構成され活躍しているこれほど大掛かりな管弦楽団は有るだろうか。

これを維持するため、我々の同期『ヤマト糊』の長谷川澄雄君が会長となり面倒を見ている。

ありがたいことだ。天下のサントリーホールを満員にしての熱演、卒業生の一人として、同行した妻や娘に鼻が高かった。

同期の友人たちも、終了後興奮して、母校の誇りを語っていた。

「弦が鳴り ラッパが響き 胸うずく」

「久しぶり 校歌聴きて 涙ぐむ」

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6月21日~麻生・小沢・鳩山兄弟~

初めに「私見・独断」である事を断っておく。

安倍氏・福田氏、短命内閣を引き継いで、麻生内閣が誕生した。

これほどマスコミの餌食になった内閣も珍しい。

首相自身の軽率な文字の読み違いから教養を疑われたのが発端だ。

それに加えて、任命した閣僚の、中川氏の酔態事件、鴻池氏の醜態事件と立て続けに足を引っ張られ、極めつけは郵政会社の社長人事を巡って、鳩山総務大臣の解任と言う足を引っ張る事態が次から次へと起こってきた。

その上、世界的不況により財政危機は最悪の状態、赤字国債を多額に計上せざるを得なかった。

又「新型インフルエンザ」の発生により、世情は益々混乱をしてきた。

すべてが麻生さん個人の責任とは言えないが、決断力のなさを指摘されてもやむを得まい。

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私は、「小沢さんが党首のまま、民主党が第一党になっても総理大臣にはなれない。」と周囲の人に言っていた。

もし、総理大臣になったら必ず金銭問題でマスコミの砲撃目標になって、早晩その地位を退かざるを得ないと確信していた。

故田中氏・故金丸氏の悪い所を受け継いできて、常に後ろ暗い金銭問題が付いて廻っていた。

案の定、第一秘書が政治献金規正法違反で逮捕された。

検察側の陰謀だとわめいているが、「火の無い所には煙は立たない」の例へのように限りなく疑わしい。

私は、小沢さんは自分でも初めから、首相の器ではないと覚悟して、何時身を引くかタイミングを見ていたのではないかと思っていた。

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鳩山総務大臣は、郵政会社「西川社長」の進退問題をなんであそこまで固執したのか。

正義の味方と思い込んでいるのか、それにしても大人気ない。

特に辞任してから、麻生さんから「後任人事のリスト」を見せられた、公表することは常軌を逸している。

あえて意地悪く解釈すると、兄貴の援護射撃の為に麻生内閣の足を引っ張るのが目的だったのではないか、と疑いたくなる。

彼のこれからの生き方はどのようにするのか見ものである。

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民主党党首に就任し、次の総理大臣は既に自分に決定したかのごとき発言を繰り返している「鳩山由起夫」なる人物はどのような人なのか。

宇宙人、小沢さんの傀儡などいろいろ言われているが、果たして実際に内閣を組閣してこの難問続出の危機にどう対応していけるのか。

私は、いくつかの問題で大きな危惧を抱いている。

1.自衛隊による、インド洋の給油問題、ソマリヤ沖の海賊船の対応、それにともなう対アメリカとの安全保障問題を今後どうして行くのか?


2.盛んに官僚の弊害を唱え改革を叫んでいるが、現在の日本の政治運営で、官僚抜きで運んでいけると本当に思っているのか?

今の官僚制度が多くの欠陥をきたしているのは判るが、あそこまで官僚の悪を指摘し、それだけ聞いているとまるで官僚の存在を認めないと錯覚している人まで出てくるのではないか?


3.元社会党の左派まで含んでいる民主党で、今後憲法改正問題や、自衛隊の存在などイデオロギーの違いが政策面に大きく影響してくるのではないか?


4.単独で政権が取れればよいが、昨今では連立解除を匂わせる発言も聞かれる。果たして国民新党・社民党との連立で今後の舵取りが出来るのだろうか?


5.節約だけで、財源不足を賄い、四年間消費税を上げないと明言しているが、最後は大幅な赤字国債を発行する結果とならないか?

 取り越し苦労にならない事を祈念している。

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6月17日~地震・雷・火事・親父~

昨日は、夕暮れから夜更けまで、久しぶりに雷がなり続けた。

時々窓ガラスが揺れるほど強く、恐らく小さな子供達は震えていたのではないか。

野球放送の最中、停電まであった。

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昔、栃木県のゴルフ場でプレイ中、突然俄かに黒い雲が拡がり雷を伴って強い雨が降り出した。
キャデーに促されて“雷よけの避難小屋”に入った途端、近くの大木に雷が落ち、生きた心地がしないほど脅かされたこと思い出した。

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昔から怖い物『地震・雷・火事・親父』と言われてきた。

しかし戦後『親父』がその地位を失った。

原因は、女が強くなった、と言われるが、私は最大の犯罪者は“給料の振込制度”にあると思う。

サラリーマンは25日に会社から給料を貰い、家では奥さんや子供がそれを待ちわび、夕食にはお頭付きで晩酌の用意をしていたものだ。

それが高度成長の始まる頃、銀行は預金獲得の為、貸出先の企業に強制的に“給料の振込”を要請してきた。

運用資金を得るため会社もこれに協力せざるを得なかった。

私は人事課に居て、給料日の前には、個人個人の給与明細を確認し、銀行から現金を貰ってきて、課単位に金種別を揃え一人一人の給料袋に入れる作業を行なっていた。

作業は大変だったが、1000人以上の社員の顔を思い出しつつ、課員全員での共同作業は月に一回、遣り甲斐の有る仕事だった。

お陰で全社員の名前と給料・家族構成まで覚えていたものだ。

それが銀行振り込みになって、給料を渡すことがなくなり、財布の紐を女房に奪われ、子供達は給料は銀行から貰っている物と勘違いをするようになると、『親父の権威』は丸つぶれになってしまった。

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今では怖い物は、親父でなく、無差別殺人・通り魔・肉親の殺傷事件と変わってきた。

人口の高齢化、核家族、一人暮らし、何か虚しさばかりが目立つこの頃だ。

しかも地球の温暖化が進み、このままでは海水の水位が上がってきて、現在の陸地が海面に沈む減少が進んでくるのは避けられない。

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精神的にも、物理的にも人類自体が追い詰められているのに、世界の何処を見ても政治は混乱、各国は自国の立場のみを優先している。

我々は後がないが、子供や孫の事を考えると背筋が寒くなってくる。


「給料日 冷えたビールに 頭付き」

「振込で 親父の権威 丸つぶれ」

「給料は 銀行が出すと 子は思い」

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6月14日~病床にて~

先月末、朝起きて顔を洗う時、血痰が出る日が2・3日続いた。

心配なので近所の掛りつけの先生に診てもらった。胸のレントゲンを撮り以前の写真と比べると、明らかに右の肺に曇りが出ている。

「これは念のため大きな病院で精密検査を受けたほうが良い。」と言われた。

別に何処も痛くなく自覚症状は全くないが、翌日以前世話になっていた友人に急遽頼み診てもらった。

持参したレントゲン写真を見て、すぐにCTを撮り入念に診ながら、
「これは悪性の腫瘍ではないが、肺炎に罹りかけているようだ。結核の可能性もあるので、呼吸器科の専門医に見てもらったほうが安全だ。」
と言い、その場で以前副院長をしていた、三井記念病院の予約を取ってくれた。

持参したCTの写しを診て、痰を調べた。その結果が出るのに2時間近く掛った。

待っている間、段々心配になってきた。気のせいか胸の辺りが少し痛む気がしてきた。

先生に呼ばれて診察室に入る。

「確かに胸に影はありますが、悪い腫瘍とか結核の心配はありません。ただ肺炎にかかりかけています。熱海にお帰りになって直ぐに病院に入られるか、できればこのまま5日ぐらい入院をして更生物質の点滴をして様子を見たほうがいいと思います。」と言われた。

直ぐに家族と相談をしてそのまま入院する事にした。

何にも入院の用意はないが、東京に居る娘が飛んできて必要な物を揃えてくれた。

とりあえず空いている個室に入れてもらい、直ぐに点滴をしてくれた。

考えてみると朝食から何も食べていないので腹が減ってきた。病院の食事をむさぼるように食べた。

カードを購入すると、テレビは1日300円、冷蔵庫は200円、便利に用意されている。

夕暮れに掛った都心は、窓から見るとビルの乱立、全く緑が見えない。

何か急に密室に隔離されたような気がしてきた。

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翌日は朝から点滴と採血、最近は年を取ったせいか血管の出が悪く採血するのに看護士さんは苦労をしていた。

十数年ぶりの入院で久しぶりにゆっくり休んだ。

若い担当の先生は親切でハンサム、丁寧に病状を聞きながら適切に説明をしてくれる。

4日目あたりから血痰も出なくなった。

心電図と超音波を30分くらい掛けて丁寧に見てくれた。

「もう明日当たり退院してもいいですが、念のためもう1日様子を見ましょう。」と言う事で、8日目に無事退院をした。

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毎日一万歩以上歩いていたが、一週間も歩かないと足元がおぼつかない。

駅の階段の上るのに疲れてしまった。人間日ごろの運動が如何に大切かを痛感した。

後で聞くと、年寄りの肺炎は急変して命取りになるケースが多いそうで、軽く考えていたが、運がよく早期発見で軽く済み、日ごろ少し無理をしていたので良い休養になったようだ。
しかし人間と言う物は暇になったら本でも読めると思ったが、イザ時間をもてあますと何をしても気が入らない。

「忙しい人に物を頼め」と言う格言を実感した一週間だった。

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6月10日~挨拶はたいへんだ~

50年位前、どういう訳か、私は結婚式の司会をよく頼まれた。

まだ自分が結婚もしていないのに、と家族の者に笑われたこともあった。

司会をしていて、一番困る事は、主賓の挨拶が長いことだ。

当然結婚式は時間の制限がある。しかし、当事者も頼んでお願いしたてまえ、主賓の人に時間の制限を申し出る事は難しい。

特に大物の政治家が一番厄介だ。

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或る後輩の式で、花婿の父親の親友の代議士が挨拶に立った。

この人の話は長いと覚悟はしていたが、花婿の話はちっとも出ず、父親の話ばかり30分以上続けた。

しかも花婿・花嫁に座れとも言わないので、さすがにホテルの係りの人が促して座らせたが、それでもまだ話は終らない。

さすがに客席もあちらこちらで小声の雑談が始まった。

やっと終ったと思ったら、「私は次の席があるので、失礼します。」と退座してしまった。

花嫁の主賓は、さすがに面白くなかっと思ったが、たいへん上手く2分ぐらいに纏めてくれてホットした事を覚えている。

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又或る式では、友人たちが悪ふざけをして、花婿の独身時代の悪さを次々に話し始め、段々悪乗りしてきた。

これはまずいと司会者として注意を促したが、時既に遅く、花嫁の叔父が途中で怒り出し、「こんなふしだらな男に、可愛いい姪を結婚させるわけにはいかない。」と式場で怒鳴りだし収拾付かなくなり、いやな思いをしたことも有る。

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先日、図書館で、丸谷才一氏の「挨拶はたいへんだ」という本を見つけ借りてきた。

結婚・叙勲祝い・出版記念・弔辞、など様々な挨拶の事例が載っている。

丸谷氏は、どんな挨拶も必ずその人の自分との間柄を考え、必ず原稿を作ってそれを詠みながら挨拶をされる事を知った。

挨拶は短いほどいいが、それでも言いたいことはきっちり表現しなければならない。

人によっては、挨拶を原稿頼りにする事を恥ずかしがる人がいる。

しかし、多くの人は、大勢の人の前で話をするのは、知らない間に上がってしまう。

すると言いたいことを忘れてしまったり、言わなくてもいい事を言ってしまったりしてしまう。

時には自分が何を話しているのか判らなくなりエンドレスになってしまう事にもなりかねない。

予め原稿を作っておけばこのようなことは避けられる。

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卓話など頼まれ、テープの撮っておいて後で聞いてみると、思わず恥ずかしくなるような場面が出てくることがある。

昔、社員教育のひとつとして、「トーストマスター法」と言って「3分間スピーチ」の訓練をしたことがある。

自分が今どのくらい話したか時間を知る訓練だ。

今日はどのくらい話したら一番適当か考え、なるべくその時間で纏める慶子をすることはたいへん重要な事だ。

何でも準備が如何に大切か、丸谷氏の本を読んで痛感した

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6月4日~アーカイブス~

書棚を整理していたら、30年位前の日記帳が出てきた。

当時会社では幹部社員教育の一環として3年連記の当用日記をやい譜し、自己行動の記録を指示していた。

思わず手にとって読み出すとつい夢中になって整理は中断してしまった。

丁度専務から社長に就任した頃で、バブルとその崩壊の真っ只中、私のサラリーマン生活で一番多忙でもっとも充実した時期だった。

毎日スケジュールに終われ、日記も断片的だが、一つ一つのことが鮮やかに思い出された。

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最近、アーカイブスと題して古い資料が脚光を浴びて、テレビなどは往年の各番組が再演されるケースが急増している。

制作費を節約するたもの措置も考えられるが、それだけでなく、過去の日本のよき時代を懐古する意味も増えているのだろう。

昭和30年代、まだ戦後のにおいが残っている、芝周辺を描いた「夕日丘三丁目」が中年以上の人たちの追憶をかきたてヒットした。

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名人といわれた人は意外と自分の演技を特集に残すことをためらっている。

六代目菊五郎の昭和10年に録画した「紅葉狩」の貴重な記録が残っている。

しかし、かれは「俺はこんなに下手なのか」と、言って後世に残すことをこだわったと聞いている。

また、昭和の落語会若手名人といわれた「古今亭しん朝」は、企画者が記録をとりたいと願ったが、なかなかこれに応ぜず、やっと4年後に承諾した。

それは見事な記録で、しん朝の名技がそのまま残っていると、評判である。

通常、将来に残すとなるとベテランでも上がってしまって、本来の味が出ない場合が少なくないといわれている。

今では舞台などいつでも録画できるようだが、それでも実写となると、照明や音声などに気を遣うので必ずしも、平時とは違った緊張感があるようだ。

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自分の卓話やセミナーのテープを聞いていると「あっ」と、思うミスや失言が出てきて恥ずかしく感じるが、文章を書くの違って常に真剣勝負だからライブは恐ろしい。

私は、社長在位の10年間、毎月給料袋に社員にメッセージを同封してきた。

これを2冊の本にまとめ「社長の給料だより」と題して発刊した。

時々、取り出しては過去を思い出す、私のアーカイブスである。

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6月1日~ジェットコースターの思い出~

昭和30(1955)年水道橋後楽園に本格的遊園地がオープンした。

私はその前年、入社した時から建設中の遊戯機械ができあがってゆくのを毎日興味深く見守り、完成を楽しみにしていた。

特に大型のジェットコースターへの期待は大きかった。

6人乗り4輌連結、40mくらいまで機械で引き上げそこから自動加速で3分間猛烈なスピードで上下左右にくねった起動を走りまくる。

2台がプラットホームで乗客を昇降させフル回転、1時間に800人以上をさばく。

しかも朝10時から夜10時まで、雨天でもない限り、連日長蛇の列、平日でも1時間以上の待ちは普通だった。

ところが、このコースターはある程度の重量がないと加速不足で途中で止まってしまう。

しかも、雨の翌日などは微妙に起動の表面に摩擦が生じ、ブレーキがかかってしまう。

そのため、毎朝、厳密に試運転を行うため、大量の砂袋を積み込んでいた。

しかし、この作業が大変なので若い社員が交代で砂袋代わりに動員された。

中には無料で毎日ジェットコースターに乗れると喜んでいる者もいたが、私はどうもあまりこのような乗り物は苦手なのでなるべく避けるようにしていた。

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当時、私は経理課の所属で、固定資産の帳簿を受け持っていた。

戦後10年、まだ完全に敗戦から抜け出していないわが国では、本格的遊園地の建設は初めてのことで、税法上、減価償却の耐用年数の規程には「その他の機械装置」という項目しか出来ない。

それは、20年だった。

元来、遊戯機械は特殊装置であり、傷みも激しく、また営業的にも陳腐化が早いので、せいぜい5~10年が限度であると予想される。

20年の償却だと機械の入れ替えの度、巨額の残存価格が残ってしまう、そのつど、減却損を計上しなければならない。

そこで、友人の兄が大蔵省主税局に勤務していたので遊戯機械の耐用年数短縮請願を行った。

役所の担当者もはじめての経験だが、現物を何度か見学してもらい、製造業者にも面会してもらい、理解を求めた。

しばしば、大蔵省に出かけ、担当者にある程度理解はしてもらったが、法律を改訂、創設するのは大変難作業であることを体験した。

半年ほど経過してやっと「後楽園遊園地遊戯機械耐用年数に対する特別措置」として6年間に短縮が認められた。

今でも、そのときの喜びとねばった誇りは忘れられない。

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