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2009年3月

3月29日~野球三昧~

今週は、WBCの優勝と、選抜高校野球でテレビの前に釘付け、久しぶりに明るいニュースに出会った気がする。

キューバに勝ち、アメリカを打ち破り、韓国との決勝戦、延長戦でのイチローのセンター前ヒットで日本中が沸いた。

まさか9回の同点に追いつかれると思った人は居なかったと思う。

何かドラマを盛り立てるために用意されたような試合だった。

オリンピックで悔しい思いをしたのを一挙に払拭した。

参加した選手の笑顔が素晴らしかったし、原監督が感極まった顔が忘れられない。

テレビの視聴率も最高を記録したのではないか。

ともかく日本中の人に明るい勇気を与えてくれた事に感謝する。

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一方、選抜高校野球で、早稲田実業の4番打者「森選手」は、地元熱海中学の出身で、中学時代から注目を浴び、名門早稲田実業にめでたく合格、1年生の時からレギュラーとして活躍してきた。

森選手を応援する為、地元の後援会の人達が何とバス6台を連ねて甲子園まで出掛けた。

私は当初同行する予定だったが、雨天で一日順延になってしまったので参加できなくなってしまった。

強豪「天理高校」と3対3の同点、9回の裏森選手がセンター前にヒットを打ち、バントに送られ、小野田選手のヒットで決勝のホームを踏んだ。

そして、今日、前試合で完封勝利を収めている「富山商業」戦では、1回2塁3塁にランナーを置き、森選手の大きなセンターフライで先取点を取り、その後も点を重ね大量リードでベスト8に勝ち進んだ。

森選手はヒットこそなかったが、4球を3つ選んでチーム勝利に貢献した。

明後日の相手は、21世紀枠で選ばれて来た仙台の「利府高校」だ。この勢いで勝ち進んでもらいたい。

そしてあの甲子園を沸かした、斉藤祐樹選手時代に次ぐ優勝旗を持ち帰ってもらいたい。

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3月22日~小学校の卒業式~

19日、地元熱海第一小学校の卒業式に出席した。

57人の卒業生が、2人ずつ緊張した顔で5メートルぐらいの間隔をあけて入場してきた。

同じ6年生でも、上背も顔つきも随分違う。中には中学生よりもしっかり見える子も居る。

全員が席に着き、開式の言葉に続き、国家斉唱が行なわれた。

次に一人ずつ壇上に呼ばれ、卒業証書が校長先生から渡された。

その前に司会者より、「証書受理の後、コメントがあるので拍手はその後にしてもらいたい。」と注意があった。

証書を小脇の抱え壇上の脇で将来の抱負や、周りの人への感謝を伝えている。

将来プロ野球の選手になりたい、親の後をついで大工になる、お医者さんになる、など明言をして降りてくる。

来賓の一人が小声で「お母さんに感謝の言葉は多いが、父親は中々出てこない」と言って回りの笑いを誘っていた。

本当に家庭の中の母親の影響がいかに大きいかを物語っていた。

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次に後藤校長先生の式辞が会った。

先生は今年定年を迎えるのでこれが最後の先生生活だと言っていた。

墨字で大きく書かれた「為尊以和」聖徳太子の17条憲法の教えから、生徒達の進むべき道を説いていた。

2年前、初島の学校から赴任してきて、持ち前の明るい性格から、先生方、生徒にも親しまれ、又地域社会にも積極的に溶け込み、学校は朝の運動から活気に満ちている。

生徒たちは途中であっても元気に挨拶をしてくるし、登校拒否とかいじめの噂も聞かない。先生も式辞をしながら感無量ではなかったかと思う。

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次に、教育委員の方から管理者告示、そして記念品の授与が行なわれた。

来賓のPTA会長挨拶そして参列者の紹介に続き、卒業生の「旅たちの詩」そして在校生の「送る言葉」の歌が行動中に響き渡った。

私達年配者にとっては卒業式には「仰げば尊し」が歌われないのは何となく寂しい思いはするが、それでも卒業生在校生の大合唱は、子供達には一生の思い出になるだろう。

最後に全員で校歌を斉唱した。

私の隣には、本校出身の女優「二宮さよ子さん」が参列していたが、出身校の校歌ということできれいな声で歌っていたのが印象的だった。

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閉式の言葉が終わり、又初めと同じに二人ずつ退場して行った。

惜しみない拍手が続き、2時間余の卒業式は感動の内に幕を閉じた。

これから卒業してゆく子供達の将来はどうなっていくのか、一人ずつ波乱に富んだ人生を過すだろうが、幸せな人生を送る事を祈りながら学校を後にした。

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3月15日(昭和20年3月10日)

もう64年の昔になってしまった。何年経ってもこの日だけは忘れられない。

この日、寝入りばなから空襲警報のサイレンで起こされ、防空壕に避難した。何時もに比べて、中々解除のサイレンが鳴らない。

しばらくうとうとしていると、突然母が
「大変だよ、東のほうの空が真っ赤だよ。さっきから飛行機の音が鳴り止まないから外に出てみると空の色が信じられないほど真っ赤で驚いてしまった。」

私達も防空壕の外に出てみると、空の半分が絵の具で染めたように赤く見えた。

しばらくすると、父がやって来て
「下町のほうが相当に大きくやられているようだ。電話が通じないので本庁に聞いてみると、浅草・本所・深川あたりはもう火の海で連絡が取れないようだ。こちらの方もまだ危ないからしばらく防空壕に入っていろ。」
と言ってあわただしく又警察に帰って行った。

前の年の11月、父が中野の警察に転勤になったので、青梅街道に面した官舎に引越しをしたが、私は下町の錦糸町の学校に通っていた。

空が白々とあけてくる頃、ようやく空襲警報解除のサイレンがなった。しかし依然として東の空は真っ赤、むしろ前より広がったように見えた。

眠い目をこすりながら起きだし、学校が心配なので登校の支度を始めた。

母は
「もう少し様子を見てからにしたほうがいい。」と、言ったが
「ともかく、行ける所まで行ってみる。」と出掛けた。

東中野の駅には「空襲の被害の為、東京方面は今の所、四ツ谷か市ヶ谷までしかいけないようです。詳しい状況は今の所不明です。」と張り紙がしてあった。

ホームにはあまり人は居なかったが、しばらく電車は来ない。

ようやく来た電車はかなり混んでいた。のろのろ運転で、四谷まで来たが、この先は不通になるとの放送があり、皆下ろされた。止むを得ないので改札口から歩き始めた。

市谷を過ぎて、靖国神社の前まで来ると、先方から着の身着のままの人達がやって来る。その人に尋ねると
「この先燃えている所が沢山あり、とても行けません。」
と疲れきった顔で応えてくれた。

空気が全く乾燥していて息苦しさを感じた。

そのうち続々と避難してくる人達が続いてきた。

仕方がないので諦めて、元来た道を引き返したが、駅に着くと当分電車は来ないと放送している。

とことこ中野の家まで歩いて帰ったときはもう午後3時を過ぎていた。

ラジオでも大空襲があったことは報道しているが被害のことは全く言わない。警察にも詳しい情報は入らない。

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それから2、3日は下町から逃げてきた人が警察に集まり、父たちはその対応に追われていた。

何日経ったかはっきり覚えていないが、予想よりかなり早く電車が走り出したので、学校に向かった。

錦糸町の駅の周りは殆ど焼け野原、我が学校は鉄筋の為外側だけ残っていた。

校庭にはまだ罹災した人が残っており、兵隊さんたちが遺体の収容をしていた。

先生が何人か居て、登校してくる生徒の対応をしていたが、とりあえず今日のところは帰るように指示された。

話によると、校庭で数十人の人がなくなり、宿直の木村先生が殉職されたらしい。同級生にもかなりの犠牲者が出ているらしいが詳細は全くわからないとのことだ。3日後に又くるように言われて帰ることにした。

丁度春休みの時期だが、学校には心配顔の生徒が集まってきたが、とりあえず焼けた校舎内の整理をした。

ところどころ水道が出ているのでのどを潤したが、食べ物を持ってくる人は殆どなく、長い時間は学校には居られなかった。

書き出すときりがないが、4月に入ってもとても勉強をするどころではなく、焼け跡整理の勤労奉仕が続いた。

5月になって、やっと近所の焼け残った小学校の教室を借りて授業が始まったが、登校してきたのは半分にも満たなかった。

あの時の事を考えると、どのような過程を経て今日のようになったか思い出せない。

今、世界的経済不況と騒いでいるが、戦後の荒廃を考えたらとても悲観的にはなれない。

贅沢に慣れすぎた世間を考え直す試練を与えてくれていると思うべきではないか。

「忘れまじ 3月10日 友の顔」

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3月8日~元禄忠臣蔵~

3月の歌舞伎座は、「元禄忠臣蔵」の通し狂言。

今まで、忠臣蔵の一幕物は見たことがあるが、通しで見るのは初めて、期待に反しない素晴らしい舞台だった。

真山青果の力作は「江戸城の刃傷」梅玉の浅野内匠頭、気品があり田舎大名の一面も現れ、吉良上野介を打ち損ねた悔しさがよく現われていた。

それにもまして、弥十郎の多門伝八郎の出来が抜群だった。

内匠頭の立場を擁護し、御政道の片手落ちを正義感溢れた感情をせりふに乗せた名演技と言える。

上使の居る前で、浅野の家来、大高源吾衛門を内匠頭に合わせる場面は緊迫感あり、観客を湧かせた。

「最後の大評定」幸四郎の大石内蔵助、以前にも見たことがあるが、貫禄充分、浪人者、歌六の井関徳兵衛とのやり取りは、第二幕三場の愁嘆場まで歌舞伎の余韻を感じさせた。

第二幕第一場「赤穂城内黒書院の間」での幸四郎の台詞は物の見事、思わず力が入る。

最後に残った同士に“自分に生命を預けろ”と、迫る場面は緊張に満ちている。

真山青果の面目躍如、同志たちが大石に決断を迫る気迫、それに応える内蔵助の苦衷に満ちたやり取り、筋書きは知っていても舞台の醍醐味は堪らない。

三幕目「御浜御殿綱豊卿」仁左衛門と染五郎の掛け合いは素晴らしい。

本意は仇討ちをしたいが、カモフラージュとしてお家再興を願い出るが、それを見破る徳川綱豊卿は、信頼する新井白石の意見を聞き自分の意見と同じ事を確信する。

この後、赤穂の浪士「富森助衛門」に、大石の真意を糾そうと酔った振りから正気に戻って、腹の探り合いやり取りが面白い。

梅玉、幸四郎、仁左衛門そして脇役の弥十郎、染五郎、富十郎いずれもはまり役、三時間あまりの舞台が息もつかぬほど興奮して幕が下りた。

夜の部には、3人の大石役、団十郎、仁左衛門、幸四郎が演じる。こんな豪華な歌舞伎、今から楽しみだ。

それにしても、不景気と言うのに歌舞伎座は超満員、さよなら公演は来年の3月まで満員が続くのか。

若手が伸び、中堅が健闘し、ベテランが支える。

目下の歌舞伎界は順風満帆と言えるだろう。 

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3月5日~2/28 逍遥忌記念祭~

コンピューターの調子が悪く、遅れてしまいました。

2月28日は、坪内逍遥の命日。毎年、逍遥協会・熱海市の主催・熱海稲門会協賛で、記念祭が開かれる。

今年も起雲閣の音楽サロンに100名以上の参加者で開催された。

初めに、熱海市長・市議会議長・熱海稲門会会長・早稲田演劇博物館館長の「お慕いの言葉」が奉読され、続いて岐阜県美濃太田逍遥記念館館長の来賓挨拶があった。

その後、市内有志の先導により、逍遥作詞の「熱海市歌」を全員で斉唱した。

私は、熱海稲門会会長として下記の言葉を述べた。

 お慕いの言葉

例年にない気候の変遷で、梅園の梅は二月末というのに既に満開となり、多くの観光客で賑っております。

今年も逍遥協会並びに熱海市役所担当者の皆さんのお陰で「逍遥忌」が盛大に開催され、深く感謝をしております。熱海稲門会を代表して一言お慕いの言葉を述べさせていただきます。

昨年来の全世界的経済不況は、留まる所を知らず未曾有の危機を迎えております。加えて、日本国内の政治は目を覆うばかりの惨状を呈しております。社会状態も連日信じられないような事件が続出しており、このような現状を作り出した現在生きている私たちは、先祖に対して申し訳ないと思っています。

熱海市も逍遥先生の目指した、「共有国宝」「世界の公園」とはほど遠い現状をどのように改善していくか難しい問題が山積しております。これを克服するには、市民全体が自覚を持って邁進していくのが唯一の解決方法です。それには逍遥先生を初め先人たちの残した教訓を生かして、熱海の良さをアピールしていかなければなりません。

幸い最近「おんたま」と題して若手を中心に街中を見直す運動が脚光を浴びつつあります。再建は一朝一石にできる物ではありません。辛抱強く続けていくべきです。

今年は、逍遥先生の生誕百五十年に当たります。改めて先生の遺徳を偲ぶべく、逍遥協会、菊地先生の演出による[シェクスピア]劇の朗読と劇中歌を捧げます。

私たち熱海稲門会も、微力ですが先生の尊い遺志を継ぎ、熱海発展のため尽くす事をお誓いしてお慕いの言葉といたします。

休憩を挟んで、アトラクションに入る。

菊地先生のシェクスピア劇の中からいくつかの場面を解説を交えながら朗読し、その間に、娘範子と厚かましく私が12曲ほど、短い「劇中歌」を歌った。

言葉が難しい上に、メロディーも始めて聞くもので、3週間ほど前から娘に特訓を受けたが、本番になってすっかり上がってしまい、出だしから間違えたが、参加者も初めて聞く曲なので何とかなったと思っている。

翌日、地元新聞に大きく写真まで掲載されたので友人たちに冷やかされた。

「劇中歌 娘と歌う 逍遥忌」

「逍遥も 泉下で笑うか 劇中歌」

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3月1日~二宮尊徳の遺言~

2月21日、目黒雅叙園にて「長沢源夫(みなお)さん」の出版を祝う会が開催された。

長沢さんは、昭和2年生まれ今年81歳になるが、20年ほど前から二宮尊徳の研究に没頭し、この度永年の成果を「二宮尊徳の遺言」と題して出版された。

当日は、各界・各層から100名近くの人が集まった。

初めに発起人代表元東洋経済新報社社長「高柳弘氏」と、東京大学農学部教授「坂井秀夫氏」の挨拶が有った。

高柳氏は、「現在の経済危機に瀕している日本の現状から、尊徳の各地の復興を果たした業績は大いに参考になる絶好の機会である。まさにタイミングを捉えた出版である。」と語り、又坂井教授は「今農業が見直され、日本経済の発展に尊徳の手法を参考にしていく事は適切であり、若い人達に浸透して行くべきである。」と述べた。

来賓として、報徳神社の有る、静岡県の掛川市長「戸塚進也氏」は尊徳と掛川市との関係、長沢さんが度々掛川に足を運び、尊徳の足跡を喧伝していること感謝している挨拶をした。

長沢さんに花束と記念品が贈られた後、謝礼の言葉の中に、

「2年ほど前に顔面神経痛を患い、片目の機能が失われて苦労し途中出筆を諦めかけたが何とか回復して今日の日を迎えられた。私の生涯の記念としてこのように多くの人にお集まりを頂き本当に感激しています。」とあった。

その後パーティーに入り、小学校時代の友人や、ジャーナリズム関係など多くの人がこの偉業を称えた。尊徳に関係有る、小田原・日光・箱根,大井町など市町村の首長からの祝電が披露された。

長沢さんは「一円塾」という勉強会を作り,各地方に精力的に出掛けて、尊徳の顕彰に勤めてきた。

特に内村鑑三の[代表的日本人]書物の中に尊徳が入っており、箱根で有名な演説をした事を捕らえて、毎年「箱根農学校」と言うセミナーを泊りがけで開催している。

この日も多くのメンバーが参加しており、アトラクションで20人近くのご夫人たちによる[箱根ソーラン]が披露された。

私は、まだ前書きと目次しか読んでいないが、この世界的不況の中、尊徳の教え、“勤労”“分度”“推譲”は、これからの日本の進むべき道を示している。

是非老若男女を問わず多くの人達に読んでもらいたい。

 著書  二宮尊徳の遺言
 著者  長沢源夫(ながさわ みなお)
 発行先 新人物往来社 〒101-0054 千代田区神田錦町3-18-3錦ビル

                                                                                                                                                                        

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